「出掛けるのか?」
 そろそろ夕食の準備をしようと台所へ向かう廊下に出ると、黒鷹の部屋の前に外套を着込んだ黒鷹の後ろ姿があった。
 不意をついたのか声を掛けるとびくりと肩がはねて帽子の羽根が揺れる。
 振り返った黒鷹は胡散臭さを体現したような笑みを浮かべた。
「やあ玄冬。ちょっと買い忘れた本があったものでね」
「こんな時間にか」
「ああ、街の方まで行こうと思うんだ。少し遅くなるだろうからね、私の分の夕食は用意しなくても良いよ」
 すらすらと答える黒鷹の声に反して、自分の返事は喉に細かい魚の骨が刺さったような歯切れの悪い声音を含んでいる。
「……そうか、分かった」
「できるだけ早く帰るよ」
 そういうと黒鷹は笑顔で玄関に向かって歩き出した。わざわざ外に出てから転移する必要があるのかは分からないが、黒鷹はいつもそうやって遠くへ飛ぶ。
「じゃあ行って来るよ玄冬」
「ああ、気を付けてな」
 扉は静かにしまり黒鷹は出掛けた。
「本屋……か」
 何故ため息をついたのだろう。俺は眼鏡を外すと鼻根を軽く摘んだ。
 黒鷹が時々どこか俺の知らない所へ出掛けているのに気付いたのは昔の事だ。あいつも特に隠してはいないのだろうし、きっと「どこへ」と質問すれば、「本当の事」も答えてくれるだろう。それなのに何故だか訊けずにもう何年も過ぎてしまった。
 今更聞いたところでだからどうだというのだ、と思う気持ちもある。
「馬鹿馬鹿しいな……」
 声に出してそれが何に対してなのかわからない自分がいた。わざわざ自分の為に一人分の夕食を用意する事へなのか、黒鷹がどこへ出掛けるのか聞けないでいる自身に対してなのか。
 それとも──黒鷹が俺の知らない「何処か」へ出掛ける事なのか。
 
「ありえない」
 打ち消すように独り言を呟く。

   窓の外はもう暗闇になっている。今頃きっと黒鷹はどこか知らない国の本を片手に本屋の主を困らせているだろう。

   終

2022年12月20日 00:09