玄冬が今立っている森の奥の小さな湖岸は、春には自生する山桜が満開になり、秋には舞い落ち敷き詰められた枯葉が彩りを添え、冬には湖そのものに氷が張りその氷層は厚く大人が数人乗っても割れる事はない。
 だが今は夏だ。
 深く青黒く水を湛えたその水面に、時おり吹いては肌を掠める生暖かい風が、その湿度とは似つかぬ涼しげな水紋を作っていく。
 膝まで捲ったズボンを歩みにより少しずつ濡らして、湖に一歩、また一歩と脚を進める玄冬の姿を見て私は声を掛けた。
「その辺にしておき給えよ。君、泳げないだろう?」
 別段、玄冬がそのまま足を進めて沈んでいくなどという心配はないが、その時私は静かに佇んでいるだけの筈の深い湖の色に、玄冬が飲まれてしまうような気がして軽い不快感を覚えた。
「魚がいたんだ」
 玄冬はこちらも見ずに微笑んでそう答える。
「そうかい、だがあまり近寄っても逃げるだろう。それに案外急に深くなるから気をつけなさい」
 彼から少し離れた木陰で涼を取っていた私は立ち上がり玄冬に歩み寄る。
 生暖かい風がまた静かに水面を揺らす。
 側まで行くと透明度の高い水辺に浸した玄冬の脚が綺麗に透けて見える。
 魚は私の気配に驚き慌てて逃げていった。
「ああ、確かにいるなあ。……まさか君、夕飯にこの魚をだなどと考えていやしないだろうね?」
 割と真面目にそう感じて玄冬を見るとぷっと吹き出す。
「見えている魚は釣れないんだぞ」
 そんな気はないし、どうせお前は肉が良いのだろう? と言いたげに呆れた表情を隠しきれないまま玄冬は私の方を向いた。
「そろそろ腹も空いたし帰るか、黒鷹」
 促す言葉は耳に入るが、私は再度玄冬の脚元に視線を落とすと、また小さな魚が岩の影から少し顔を覗かせている事に気付いた。
「見えている魚、ねぇ……」
 私は玄冬の腕を掴むと引き寄せた。急に強く腕を引かれた弾みで玄冬はぐらりと私の方に傾き派手な水音をたてる。少し汗ばんでいたのか前髪は額や頬に張り付いていた。
 きっとこの水の透明度なら食卓に上がらずに済んだあの魚にも見えただろう。
 我ながら嫉妬深いな、と内心ひとりごちて自嘲の笑みを浮かべると玄冬の腕から手を離した。

   終

2022年8月17日 17:32